クレメンタイン
部屋の中には蜜柑の香りが充満している。
それもそのはず、隣で真琴が蜜柑を食べているのだから。もくもくという咀嚼の音が聞こえそうな程、ゆっくりと噛み締めている。 線に見えるくらいに細められた目は、炬燵の暖気に当てられてだろう。とても心地良さそう。
ごくり、蜜柑が喉を通る音。「あぅー」と声を上げて真琴は炬燵の上に突っ伏した。その間に私は新しい蜜柑の皮を剥く。その音に 反応してか、真琴は顔を上げて目の前にある、私が剥いた蜜柑を物欲しげに見つめている。
仕方ないですね、そんな顔をして真琴の口元にみかんを一つ運ぶ。
えへへ、と申し訳なさそうな顔をして真琴は目の前の蜜柑を口に咥える。私は手を離す。
こんな光景、昔にもあった。それは何時だろうと、思い出してみる。だけど、思い出すのにさほど時間は掛からない。だって その思い出は、何時だって私の心の真ん中にあるのだから。
学校から家までの道を一人で帰っていた。
灰色の空から降りてくる雪が、葉を落とした桜並木の枝の上に乗っかっている。時刻は夕方のはずなのに、それを察せるような陽光は 微塵も見えてこなかった。あるのはただ、灰色の空。
それはいつもの光景だった。雪国の冬の情景としてはありふれた、もちろんこの街でもありふれた光景。 ただ、帰り道の最後には、普段と違うものがあった。自宅のドアの前に人が寄りかかって倒れていたのだ。 きつね色の髪を肩までに垂れさせた女性。
何でこんな所に、とは思ったけど、ひとまず顔を上げさせて表情を窺った。明らかに疲労の色が見える。でも、 私と同じくらいの年頃と思える少女の顔は、私の知らないものだった。
「うう、ん」
薄く開けられていた口から、僅かに息が漏れた。途端に目が開き、声を掛けるまもなく、視線が私を捉える。
「いたーー!」
至近距離からの大声に耳がきん、となった。
「えっ、と。なにがですか?」
「だからいたの」
「誰が?」
「あなたが」
「どうして私を?」
「わかんない」
解らないのはこちらの方だった。家の前に倒れるわ、目を開けた途端大声出すわで、こっちが戸惑ってしまう。
「まちがいないよ、うん。ずっと探していたから」
「あの……どこかで会いました?」
「うん」
「どこでですか?」
「わかんない」
戸惑うというか、困る。
とりあえず、家に上げる事にした。ふりしきる雪の世界にずっと放り出されていたんだ。見捨てようものなら、大変な事になる。 話をしている分には何の異常も見られなかったけど、家に入れようと触れた氷のような手の冷たさには驚いた。あれは危険な冷たさだった。
少女を炬燵に入らせて、私は何か温かいものを、お湯を沸かせた。お風呂に入らせようか考えたけど、それはいき過ぎた気遣いに思えた。 そもそも知らない人を家に入れる事ですら、危ない行為なのだから。
そこまで考えて、はたと気付く。なぜ私はこの少女を家に入れたのだろうかと。放って置くと危ないから、というのも一つの理由だけど それだけじゃ足りない。じゃあ、どうして――。
「――ねぇ、ねぇってば」
「……はい?」
考えに捕らわれている内に声を掛けられていたようだ。どうも私には、思慮に没頭してしまう傾向がある。 口調から察すれば、彼女は私に何度も声を掛けていたようだ。
「なんですか?」
「えっと、これ何?」
そういって、手に取った蜜柑を私の目の前に差し出した。
「蜜柑を、知らないのですか?」
「うん」
そんな人もいるんだ。私は説明の為に、彼女から蜜柑を取り上げた。
「あっ」
「これはですね」
蜜柑の皮を剥いていく。ちゃんと全部つなげて剥いた。その中の一個を取り出して、口の前に差し出した。
「こうやって食べるんです」
「これを?」
「そうです」
おそるおそるといった感じで目の前の蜜柑を口に入れる。
「あっ」
「どうしました?」
「おいしい」
顔を綻ばせて言う。私は彼女の目の前に剥いた蜜柑を置いて台所に向かおうとした。
「ねえねえ」
その私を彼女が引き止める。
「一緒にこの中に入ろうよ」
ぽんぽんと、炬燵の側面の布団を叩いている。
「でも、お湯を沸かしていますから」
「この中、あったかいよ?」
「それが?」
「だから、一緒にはいろ?」
「はぁ」
正直、言っている意味が良く解らなかった。一緒に入りたいというのは解ったけど。
「手が冷たい」
「え?」
「手が冷たくて、動かないの。だから、おかわりお願い」
視線の先には私が差し出した、蜜柑があった。
「だから、ね?」
冷たいのは本当なのだろうけど。動かないってのはどうだろう。だけど、深く追求する気は起きなかった。それは、 彼女の笑顔がそうさせたのかもしれない。
「……仕方ないですね」
私は炬燵の中に入ると、蜜柑を手にとった。それを彼女が口の中に入れる。
「おいしい」
彼女の目じりが下がるにつれて、私の口の端が上がっているのに気付いた。
真琴の口元から、蜜柑の汁が垂れだした。
気付いてないようなので、ティッシュを取り出しぽんぽんとその口元を拭いてあげた。
「ありがと」
言ってすぐに、また蜜柑に手を伸ばす。そういった所も、あの子に似ている。雰囲気だけじゃなくて。
思い返すと、くすりとさせる思い出が多かったような。だけど、懐古を繰り返せば、自然と悲しい思い出にもあたってしまう。 だけど、私はそれをよしとしている。悲しみの割合は多いのかもしれない。けど、忘れようだなんて思わない。 そんなのは当たり前。
「ねえ美汐ぉ。雪が、雪がキレーだよ」
あの子はわざわざ雪が大量に降ってくる日に限って外に出たがる。私は苦笑しながらもついていった。私よりずっとずっと 足が速いから、目を離すと直ぐに見失ってしまう。後を付いていくと、あの子が降る雪に染み込ませた蜜柑の匂いがした。
のんびりしていると、
「ねえ、早く着てよ」 なんて言いながらずっと先の曲がり角に行ってしまったりする。私は息を切らせながら曲がり角まで走った。
そうしたら、
ぼこっ
と、そんな音がして、雪玉をぶつけられた。
ぶつけられた方角を見れば、あの子が蜜柑を頬張るように、口の中一杯に笑い声をひそませていた。
そして、まもなく決壊。
「あはは、なんか面白い顔してるーっ」 なんだか良く分からないけれど、私はその笑顔を見てどうも落ち着いた気持ちになっていた。本当は怒るところなんだろう。 けど、私は怒ったフリをして雪玉を投げ返そうと思った。その方がいいと思ったから。
「……ねぇ、美汐。ちょっと怒ってない?」
「怒ってないですよ」それは本当。
「でもでも、なんかすっごい雪玉作ってるし」
「挑戦を受け取っただけです」
「ええと、逃げていい?」
「どこまでも着いていきます」
「ええぅ」
そうこうしている内に、向こうも雪をかき集めだした。やっぱりこの方が良さそうだ。
熱心に雪玉をかき集めると、手の感触がおかしくなっている事に気付く。だけどそんなの気にしない。私の気持ちは、この赤く 腫れ上がった手のように、ぎゅうぎゅうに詰め込まれているのだから、そんなの気にならない。
そろそろいいかな、私は作り上げた雪玉を片手で抱え込んで顔を上げた。
途端に――
どささーっ
と、大量の雪が頭上から降りそそいだ。視線の先にはやっぱりあの子。その顔はさっきよりも口いっぱいに蜜柑を頬張ったようにも見える。 どうやらかき集めた雪を丸めないで、そのまま頭から落としてきたようだ。 ひょっとしたら、またしても、慮りに捕らわれていたのだろうか。完全にスキをつかれた気分だ。
「あはははは! さっきより全然面白い顔!」
……ちょっと、キた。
「美汐! ごめんなさいごめんなさい! 許して」
「なんの事ですか」
「頭から雪かぶせた事、わぷっ」
「正々堂々とした勝負です、これは」
「じゃあ、負けでいいからっ。ひゃあ!」
「敗走する相手には、追撃あるのみです」
「うわーん」
なんだかんだいって、雪合戦は楽しかった。雪をぶつける事も、ぶつけられる事も。
あの子の雪玉には、蜜柑の香りが詰まっているような気がした。
「やっぱり運動した後は、こたつでみかんだよね」 何をしたとしてもそれだろうに、とか思ったりもするけれど、なんとなくそれもこの子らしい。
「そうだよね美汐」
ちなみに、私も一緒に入るというのも基本らしい。
「えへへ、美汐のふともも、暖かい」
むき出しの足の裏を私の大腿に乗せてきた。ひんやりと言うよりは、むしろ冷たいその感触に少し眉をしかめる。
「冷たいです」
「でも気持ちいい。柔らかいし」
そんな事を言ってくる。しばらくすると、足先がスカートの中に進入しようとしているのを感じた。
「……雪合戦の続き、しましょうか」
「わっ」
すぐに足を引っ込める。びくびくした表情にちょっとだけ嗜虐心をくすぐられる。 私が笑みを漏らすと、ぶすっとした表情でこちらを睨んできた。
室内の蜜柑の匂いはさっきよりも充満している。匂いにちょっと鼻をくすぐられる。
「美汐……どうしたの?」
真琴の声が聞こえる。私は目頭が熱くなっているのに気付いた。
「なんでもありません。少しだけ」
「少しだけ?」
「……蜜柑の皮の汁が、目に入っただけですよ」
「ふぅん」
少し納得してない表情を露にしながらも、真琴はまた目の前の蜜柑に視線を移した。
あの時、私は見ず知らずの人を家に招いた理由が自分でも分からなかったけど、今なら解る。私には解るんだ。
そして私は目を閉じる。
閉じた拍子に、目尻に溜まった涙がはたき落とされて頬を伝った。