はじめての帰り道
横から吹いてくる風に、風子は眉をしかめた。こういう風は、嫌いだ。
どうにも、このくすぐるように吹いてくる風は、好きになれない。 全身にこそばゆさが走って、気持ちのいいとは言えない感覚がする。
そうでなくても、風子は今、機嫌がよろしくなかった。
今日も今日とて、こうやって一人で放課後の帰り道を一人で帰っているからである。自分には恋人が居るというのに。
「はぁ」
こんなため息をついているものの、実際はその恋人が悪い訳ではない。彼女の恋人である岡崎朋也は、恋人になってから数日ののち、毎日のように一緒に下校 しようと誘っている。断っているのは、もちろん風子だ。
ではなぜ風子が朋也の誘いを、ことごとく拒否しているのかといえば、単に緊張していつの間にか断ってしまっているだけなのである。
岡崎さんに、誘われましたっ。どうしましょう。心の準備が出来ていませんっ。ですから、今回は保留します。
そんな思考が、僅か0.01秒の内に展開され、気が付けば断ってしまっているのである。それでいて、断ったら断ったらで、 今度も誘いがあるのかどうか不安になってしまう。一見すると、訳の分からない思考ではあるが、おそらくは乙女の複雑な感情故なのだろう。 おそらくは。
ともかく、風子はそれゆえに不機嫌になっている。
今日もまた断ってしまいましたっ。次のお誘いはあるんでしょうかっ。
いま、彼女の中ではそんな思考が展開されている。ちなみに、これで通算20回突破。
そんな風子も、いい加減この無限になりかねないループに気が付いている。ただ、それの突破口が見当たらないだけで。そして、 その突破口も今日見付かるであろうと、風子は考えている。
なぜなら今日、風子の家に、おねぇちゃんである伊吹公子が久しぶりに帰ってくるからである。既婚者の公子は既に実家を出て、 夫の芳野祐介と一緒に暮らしている。美人のおねぇちゃんと、二枚目の祐介さんのカップルは、風子にとって理想像となっている。 その理想像の一人に相談を受けたなら、風子の悩みも万事解決ですっ、と考えているのである。
よし。そこまで考えて風子は、俯いていた顔を上げた。帰り道の坂も降りきった。あとは、平らな道を歩くだけだ。
そうまで考えて、風子は早足で家へと向かった。
「ふぅちゃん、それって矛盾してる……」
「なにがですかっ」
相談して早々、風子の思考段階は否定された。どうやら、乙女の複雑な感情でもなんでもなく、単に風子がおかしいだけのようだ。
「だって、次のお誘いが来るのかどうか不安なのに、毎回保留しているんでしょう?」
「そういう捉え方も可能です」
「捉え方とかじゃなくて、本当にそうなの」
「風子、どうすればいいんですか?」
「いきなり話変わったね……」
「おねぇちゃん?」
「うん、それなら簡単に解決するよ」
「本当ですかっ」
「うん、ふっちゃんがね……」
そこで公子は両の拳を胸の前にグッと固めて。
「ふぅちゃんからお誘いすれば大丈夫っ」
そう言った。
「え……」
風子はきょとんとしている。
そして、急に顔が赤くなったかと思うと、
「な、なんで風子がお誘いしなければならないんですかぁ!」
「だって、恋人同士なんでしょ? だったら大丈夫っ」
公子さん、またもや両の拳をグッと固める。
「誘われると断っちゃうんでしょ? だったら自分から誘えばいいでしょ?」
「おねぇちゃん、むちゃくちゃですっ。発想が異常ですっ」
「別に異常とまではいかないと思うんだけど……」
そこで、公子は口元に人差し指を当て、むーんと考える仕草をした。
恋人同士。
そう、二人は確かに恋人同士なのだ。しかし、風子はどこか今の関係に違和感を感じている。そもそも、二人の馴れ初めからして このカップルには、違和感があるのだ。
風子が長期欠席から復帰した最初の日、彼女が一番最初に向かったのは、自分のクラスなどではなく、三年のクラスの教室だった。そこで 二人は初めて出会った。にも関わらず、風子はいきなり交際を申し込み、それを朋也は了承した。傍から見れば、これほど変わった 交際の始まりも無い。
そんな始まりだからこそ、風子は時に不安になる。
たとえば、朋也は自分を見てくれているだろうか、だとか。
一緒にいることを退屈と感じていないだろうか、だとか。
仮にそうだとしても、いつか飽きられてしまわないだろうか、といった不安すら浮かんでくる。
ただ、それらの不安の根底に、自分がどういう感情を持っているかは、風子自身は自覚していない。
面を上げれば、公子はまだ口元に指を当てている。ただ、さっきよりも難しい表情であることに、妹の風子は 気づいていた。
「でも、このまま何も進展しなかったら……」
そこで、急に公子は不安げな顔を見せた。
その表情を見て、風子は焦ったように質問をする。
「しなかったら、どうなりますかっ?」
「二人の関係が、終わっちゃうかもしれないね」
「っ、それは困りますっ」
風子は即座に返事をした。
そう、例え二人の馴れ初めが異常であるにせよ、風子が朋也を好きだということには変わりないのだ。そして、朋也とも面識がある 公子は、彼が風子を離さないであろうことも分かっている。
それでもこんな事を言ったのは、風子を焚き付けるためである。伊吹公子、彼女は策士であった。
「だって、キスもしていないし、手も繋いでいないんでしょ? それじゃあ、男の人は不満になっちゃうよ?」
「キ、キスだなんて、唾がついて汚いですっ」
「ふぅちゃん、こども」
「そんな事ないです。風子は立派な大人です」
「じゃあ、大人のキスも知ってるよね?」
「大人の、キスですか?」
そこで、おねぇちゃんは、妹の耳元に近づき、大人のキスについて説明した。
それを聞いた風子は、
「え、えっちですっ。不潔ですっ」
「でも、大人の人はみんなしているよ?」
「マジですか」
「マジです」
「……おねぇちゃんもしてますか?」
「おねぇちゃんもしてます」
風子は、くらっとよろけそうになるのを堪えた。
「おねぇちゃんは、結婚して変わってしまいました……」
「ふふ、そうかもしれないね」
その後風子は、公子から下校のお誘いから、そのあとのアプローチの仕方まで、みっちりとプランを練らされる事となった。 風子以上にノリノリで、嬉々として助言を与えてくれる姉を見て、風子は「祐介さんの時もこうしたんでしょうか……」と、 本題とは別の事を考えていた。
「まさか、お前の方から誘ってくれるとは思わなかったな」
「岡崎さんが何時までも、声を掛けてくれないからこっちから掛けたのです」
「いや、俺何度も誘ったんだけど」
昨日と同じ帰り道。ただ、今日は一人ではない。
それを考えるだけでも、少し顔が熱くなっていくのを感じる。
「……」
「……」
何を話せばいいのだろう、と今更ながらに思った。
そういえば、自分と朋也は普段どんな話をしていただろうか。
好きなテレビの話? そんなのした事無い。マンガの話、これも全く無い。好きなヒトデの話、ヒトデは全部好き。
じゃあ、一体どんな話をしていたのだろう。そこからの記憶が、ごっそりと抜け落ちたかのように、浮かんでこない。 多分それは、不自然な鼓動を打つこの心臓の所為だ。
「――おーい」
「……はっ」
「お前、しっかりしろよな」
「違います、風子がボーっとしてしまうのは、岡崎さんのエスコートが下手だからです」
「あ、そ」
そこでまた、会話が途切れる。
ああ、またやってしまった。折角会話がスタートしたというのに、またしても止まってしまう。一体今日という日は、何なんだろう。 全然言葉が上手くついて回ってこない。
「あのよ」
そこでまた、朋也から風子に話しかけてきた。
「……はい」
「せっかく一緒に帰ったんだし、商店街にも寄っていくか?」
「…………??」
「だから、エスコートしてやるっての」
どうしよう。
そう思いはしたものの、やはりここはついてくことにした。
「仕方ないので、エスコートされるとします」
「お、まさか本当に受けるとは」
「するからには、完璧なエスコートをしてください。これでも風子は、多くの人にエスコートされているから、評価は厳しいです」
「あ、そ」
「ほら、これなんかいいんじゃないか?」
「全然欲しくないです」
今、二人は商店街のアンティークショップに居る。朋也が風子に差し出しのは、少し落ち着いたデザインのイヤリング。
「ま、こんな大人なデザインのもの、お前には似合わないか」
「まるで、風子が子供だと言ってるみたいです」
「みたいじゃなくて、そう言ってるんだよ」
「失礼です極まりないです。風子は、商店街で注目を浴びるほどの大人です」
「あー、ハイハイ」
「真面目に聞いてくださいっ」
「とりあえず、別の店に行こうぜ。ここにいても、お前の欲しそうなものは、ないようだし」
そう促されて、店を出た。
次に着いたのが、おもちゃ屋さん。
「ほら、ここの店ならお前の欲しいものが、いっぱいありそうだぞ」
そうして店内を見回す。
目に映るのは、さまざまなおもちゃ。ちいさなぬいぐるみや、もう直ぐ迎えるだろう季節の道具である花火。ピースの大きな ジグソーパズルなんかもあった。
でも、その中でも一番風子の目を引かせたのは、一つのパーティセットだった。中には、三角帽子やクラッカー、プラスチックの 小さな笛なんてものも入っている。
その中の三角帽子。それを着けている自分の姿を想像する。
………。
……。
…。
「――おーい」
「はっ」
「お前、まさか、この中にお気に入りがあるのか?」
「そんなものはありません。こんな子供っぽい店に、風子を満足させるようなものは」
「んじゃ、行くか」
「あっあっあ」
「やっぱ欲しいものあるんじゃないか」
必死に朋也を引き止める。
朋也の視線の先に目を移すと、自分の目当ての商品があった。
「あれが欲しいのか」
「その可能性は否定できません」
「素直に欲しいって言えよ」
「でも、風子お金ないです」
「バカ、俺がプレゼントするんだよ」
「意味が分かりません」
「俺がエスコートするんだろ」
「でも、それとこれとは別です。風子、今日は誕生日でもなんでもないですから」
「あー、じゃ、あれだ。今日は、初めて風子と一緒に帰った記念日」
「そんなの記念日になりません」
「なるんだよ、嬉しい日なんだから」
そこで、一旦会話が止まる。
風子は今の言葉の意味を飲み込もうと、頭の中で反芻した。
「嬉しい日に、なるんですか?」
「当たり前だろ、お前と一緒に帰りたかったんだから」
「……」
飲み込もうとした言葉の意味を、朋也の口からはっきり告げられた。
「じゃあ、これは貰ってしまうことにします」
最後の分かれ道が近づいてくる。もう夕暮れが終わりを迎えるころ。空の向こうには、夜と夕方の境目が見えている。
結局、おねぇちゃんが組んだ作戦は、殆ど実行できなかった事に気付く。
まず、帰り道の坂でそっと手を繋ぐ事。そして、帰りに寄り道して――ここまではいったが――どこか食べ物のお店に入って、 二人で仲良くパフェをつまむ(今考えると、朋也相手にそれは相当無理がある)。
そして最後、別れ際に――。
なんでしたっけ?
風子は見事に忘れていた。
とはいえ、風子はすでに目的を達成した気分でいた。今日はよくやった、と。ノリノリのおねぇちゃんに押し切られて、ここまで やってきたものの、結局は自分もノッていたなと思う。回りから見れば、そうには見えないだろうけど。
「んじゃ、ここで別れるか。あー、でも、最後にやりたいことが有るな」
「なんでしょうか」
「よし、風子。目をつぶれ」
「人さらいですっ」
「んなワケあるかっ」
「でも、岡崎さんが人に目をつむらせてする事なんて、これ以外にありません」
朋也はため息を吐き、少し真剣な目で風子へと向き直る。その視線に、風子は少しだけ動揺した。
「ま、とりあえず目ぇつぶっとけ」
「どこかにつれて行きませんか?」
「いかねぇよ……」
「じゃあ、目をつぶってしまいます」
最後には朋也の指示に従うことにした。
今、閉じた瞳の向こうでは、朋也が呆れたようにため息を吐いている。
「お前、やっぱ子供な」
「なっ」
反論しようとして目を開けるのが悪かった。
そのせいで、風子は朋也が自分の唇を塞ぐところを、まじまじと見つめる結果となってしまったのだから。今、まさしく 目と鼻の先くらいの距離に、朋也の顔があった。間近に見て、気づくことあった。触れ合う髪の毛が、柔らかいこと。 思ったより睫毛が長いこと。そして、キスする時の朋也の顔は、とても優しげである事。そう、今自分たちはキスをしているのだ。 そこまできて、風子は唇に感じる、暖かな感触を知覚するようになった。暖かさが、唇を通して全身に行き渡るように感じる。 もしかして、これは自分だけでなく、朋也も感じている事なのだろうか。だとしたら、なんて、すごいのだろうと風子は思った。
………。
……。
…。
――はっ。
そこまできて、風子は朋也の体を、ドンッと押し退けた。体は離れはしたものの、唇の感触は今のなお残っている。 しかし、今の風子にはそれ感覚よりも、恥ずかしさが勝っていた。
「な、なな、何をするんですかぁ!」
「ん、キス」
「唇に唾がいっぱいついちゃいましたっ!」
「お前、子供な」
「そそ、そんな事ないです。風子は立派に大人ですっ」
「じゃあ、もっと大人のキスが良かったか?」
大人のキス。
そう言われて、風子はおねぇちゃんに教えて貰った禁断のアレを思い出してしまった。
「―――!! 最悪ですっ、セクハラですっ、犯罪ですっ」
「俺、そこまで酷いことしたか?」
「当たり前ですっ」
風子は、火照った頬を押さえてから、佇まいを直す。
「帰りますっ。セクハラ魔人さんとはこれ以上一緒にはいれませんっ」
「んじゃ、明日俺から誘っちゃ駄目か?」
「駄目に決まってますっ!」
「駄目なのか……」
「そ、それでは帰ります」
逃げるように風子は分かれ道を後にした。歩調はまるで、未だに治まろうとしない心臓の鼓動と、 同じくらいの速さになっている。歩いて歩いて、やがて心臓も歩調も落ち着きを見せるようになってから、 改めてさっきの出来事を思い返した。するとまた、心臓が跳ね上がった。落ち着きがない。だけど、そんなもどかしさを、どこか 心地良く思っている自分が居ることに気づく。そういえば、またしても朋也からのお誘いを断ってしまった。 もしかしたら、また自分から誘う事になるのだろうか。それでも良かった。このもどかしい様な心地良さを味わえるのなら、 強引にでも誘ってやろうと思った。
風が吹く。くすぐるような風が、今の風子には気持ちよかった。そう、この風は今の気持ちに似ているようで、決して嫌いじゃない。
夕暮れの、心温かな帰り道の途中、風子はそう思いながらくすっと笑った。