ふぅ、と息をついて私はベッドの脇にもたれ掛かった。慣れない事をすると随分と疲れるものだ。たった二日間 人の家にお泊りする、そのための準備なのにこうも疲れる。私はさっき確認したばかりなのに、もう一度バッグの中身を 点検する。中にはパジャマや洗面具、着替えなどさっき確認したときと同じものが見える。すこし多すぎないだろうか。 人の家に泊まったことの無い私は、こういう時に何を用意すればいいか良く分からない。バッグの奥のほうに手を入れると、 やわらかい感触、多分バスタオルであろうその柔らかいものに触れて私は気づく。

「そうだ、バスタオルは向こうで借りればいいんだ……」

 そのことに気づくとまた大変だった。何か他にも向こうで借りる事が出来るものが無いか、また一つ一つチェックすることに なる。もう一度確認を一通り済まして布団に横になった時には、いつもの時間を一時間ほど過ぎていた。 枕元のスタンドの明かりを消して目を瞑る。読みかけの小説が気になっていたが、睡眠時間が減って朝起きられなくなると いけないので読むわけにもいかなかった。

 せっかくの休みだから遊びに来て、と誘ってくれたのは真琴だった。連休に何をするのか聞かれた時、いつも通りに本を読んで家で過ごす、 と答えたら「もうちょっと健康的に過ごしなさいよぅ」などと言って家に誘って来たのだ。水瀬さんの家で連休を 過ごすならどっちにしろ家を出ないのでは、とか思ったりもしたが口にするのは止めておいた。しかし、私は本当に 誰かの家にお泊りするのは初めてなのだ。ただ家に泊まるだけなのに、遠足前夜の小学生のように落ち着かない。  色んな事が頭の中に浮かんでは消えていく。
 一体どんな料理が出されるのだろう。
 水瀬さんとはあまり話さないけれど、うまく会話が出来るだろうか。
 相沢さんはどんな風に迎えてくれるのだろうか。

 流れるような思考が止まったのは、もう午前の三時を過ぎた頃だった。




一つの後悔と……









 私は恐る恐るインターホンを押す。子供の頃からあまり人の家にお邪魔したことの無い私は、そんな動作にさえ緊張をしてしまう。 しばらく待っていると、どたどたと家の外からでも階段を降りる音が聞こえてきて、ドアが開かれた。 予想通りドアから出てきたのは真琴だった。それが分かっていた私は、さっきから用意していた挨拶を口にする。

「今日は、真琴。今日から三日間宜しくお願いします」
「うん、今日は、美汐。今日から三日間宜しくお願いします」

 私の挨拶が面白かったのか、真琴は私の真似をして、ややかしこまった口調で返事をする。

 私の仕草を面白がって、こうやって真似するのは最近になってからだ。どうにも相沢さんの影響を受けてしまったらしく、 私の事をおばさんくさいだとか言ってくるようになった。
 一緒に住んでいるのだから、互いの影響を受けてもおかしくない。おばさんくさいと言われるのは、 あまり嬉しくはないのだけれど、二人が楽しそうに話すものだから、何となく口に出すのは憚られた。

「早く中に入ろ。荷物いっぱい持ってきたみたいだから、直ぐにでも下ろしたいでしょ?」

 やっぱり多く持って来過ぎたのだろうか。バッグを見ながらそう言ってくる。

 ドアの向こうから相沢さんの顔が見えた。真琴が入り口に立っているから、外に出たくても出られないようで、背伸びをして こちらを窺っている。

「おい真琴、俺が外に出られないじゃないか」
「あ、祐一。リビングで待ってるんじゃなかったの?」
「なんとなく、な。とりあえず天野も中に入ろうぜ」

 そう促されて私は家の中に入った。とりあえず真琴の部屋に荷物を置いて、リビングへと降りた。部屋には 水瀬さんとそのお母さん、秋子さんが私を待っていた。

「いらっしゃい、美汐ちゃん。二日間ゆっくりしていってくださいね」
「天野さん、よろしく、だよ」
「お邪魔します。これから三日間お世話になります」
「あら、挨拶が丁寧ね」

 そう言いながら、秋子さんはキッチンへと向かい、沸騰したお湯を取り出すべくやかんを手にした。

「美汐ちゃん、紅茶は何が好き?」
「いえ、どうもお構いなく」
「だめですよ、美汐ちゃんはお客さんなんだから」
「違いますよ秋子さん。天野は紅茶は飲まないですから」

 秋子さんにそう告げる相沢さん。といっても、彼は私が紅茶を飲まないのを知ってるわけではなく、単に私に 対する印象で言っているのだろう。

「えっと、緑茶のほうがいいのですが」
「よし、それでこそ天野だ」

 微妙に引っかかる言い方をしてくる。やっぱりこの人は失礼だ。

 仕事があるという理由で秋子さんは席を外し、水瀬さんも宿題があるから自分の部屋に戻っていった。

「がんばるなぁ、名雪は」
「相沢さんは宿題はどうしたのですか? 確か水瀬さんと同じクラスでしたよね?」
「名雪が頑張ってるからな。俺は頑張らなくてもいいんだよ」
「それは……少しずるいのではないでしょうか」
「いいんだよ。毎朝名雪を起こしてるんだから。これくらいさせて貰わないと割に合わない」
「ただ朝起こしてるだけでしょう? それだったら……」
「美汐は知らないからそんなこと言えるのよぅ……」

 真琴が顔をしかめながら言ってくる。どうやら水瀬さんは朝が弱いらしい。でも、綺麗な人という印象を持っている 私には、水瀬さんの寝ぼけ顔は想像できなかった。



 それから夕食までの間、私たちはリビングで時間を過ごした。夕食は明るい雰囲気の中で行われていた。
 終始笑顔をたたえる秋子さん。
 相沢さんの分のおかずを取ってしまう真琴。
 真琴に反撃する相沢さん。
 そんな二人をたしなめつつも、楽しそうに笑っている水瀬さん。
 食事のマナーが良いとは決して言えないけど、こういう雰囲気の中で食事をするのは新鮮と言える程懐かしかった。




 私が以前、こういった雰囲気の中で食事をしたのは、何時だっただろうか。
 仕事が忙しい両親と、食事を共にするなんてめったに無い。それに、もし三人揃って食事が出来たとしても、 そこに今目の前にあるような状況になるとはとても思えない。別に冷めた家庭という訳でも無いのだけれど、 決して明るい家庭とは言い難かった。
 そんな時間は、あの子が私の家に転がり込んで来るまでずっと続いていた。
 あの子は私に明るい食事の時間をもたらしてくれた。いや、それだけではない。普段外に出ない私を引きずり出して、 外で鬼ごっこをしたりだとか。商店街に行き美味しい食べ物を食べて、ゲームセンターで一日中遊んだりだとか。 今まで私が知らなかったものをあの子はもたらしてくれた。そう、私はあの時確かに、自分の世界が広がって行くのが分かった。

 だけど、あの子はこの世界から消えてしまった。束の間の奇跡によって存在していたあの子は、いずれこの世から消えて無くなっていく 運命にあったのだ。でも……

「あー! から揚げがなくなってるー!」
「早く食べないから無くなるんだよ」
「残してくれたっていいでしょっ」

 だとしたら、今ここに存在する奇跡はなんなのだろうか。沢渡真琴。相沢さんのもとにやってきた彼女は、束の間の奇跡の後、 確かにここに存在する。一体、私と相沢さんにどんな違いがあるのだろうか。 束の間の奇跡を体験してきたという点では全く同じだというのに。

「? どうした、天野。食事が進んでないぞ」
「……いえ、なんでもありません」

 私が返した返事は、随分と素っ気無いものになってしまった。




 夕食とお風呂の後、私は真琴の要望で部屋で二人で話す事となった。どうやら相沢さんについて言いたいことが有るらしい。 部屋に着くなり真琴は相沢さんの事を物凄い勢いで話し始めた。やれ肉まんを一日二個しか食べちゃ駄目だというのは 厳しすぎるだとか、やれ自分が何かする度に頭を小突くのは酷いだとか。他にもまだまだ言いたい事が有るらしく、 真琴は延々と喋り続ける。それに対する私の意識は別の所にあった。

 夕食の時からずっと考えてきたこと。何故、真琴は戻ってきてあの子は戻ってこないのか。私だってあの子が戻ってくるのを ずっと望んできた。その思いは決して相沢さんのそれに劣るものでもないし、時間と共に風化したということも無い。


「…汐、美汐」
「……あっ、何か言いましたか?」
「ねえ、真琴の話聞いてた?」
「……すいません」

 もうっ、と頬を膨らませながら真琴が言う。どうやら長い間考えていたらしい。真琴は随分と不機嫌な顔をしている。

「だから、祐一が一日に肉まんを二個しか食べちゃ駄目だって……」
「あ、そのあたりは聞きました。あと、頭を小突いてくるだとか」
「なんだ、ちゃんと聞いてるじゃない」

 本当はその二つしか覚えが無いのだけれど、ひとまずその事は言わないでおいた。
代わりに、私は一つ二つ疑問を真琴に投げかけた。

「ねぇ、真琴。相沢さんの事、好きですか?」
「えっ!? ……えっと、そりゃあ嫌いじゃないけど」
「じゃあ、相沢さんはあなたのことが好きだと思いますか?」
「み、みしお〜。なんでそんなこと聞くのよぅ」
「ちょっと気になることがありまして。それで?」

 食い下がるように私は尋ねる。私の言葉に動揺を隠せない真琴は、顔が紅くなってあうあうとか良く分からない声を出している。 そんな真琴の姿はとても可愛らしく、私はなんとなく聞かなくてもどういった答えが返ってくるのか予測できた。 そして真琴は先ほどとまったく違う調子で喋り始める。

「えっとね、祐一は嫌な奴だけど……」
「だけど?」
「本当はね…優しいんだ。ぴろが祐一と寝たいからって、ぴろがだよ、真琴じゃなくて。まあそれで夜、祐一の部屋に行くんだけど、 真琴もぴろと一緒に寝たいから祐一の部屋で寝ようとするんだ。その時だって嫌な顔はするんけど一度も追い払ったことはないの。 しょうがないな、って言っていつも迎えてくれるの」

 嬉しそうな顔で真琴が言う。私は黙って聞いていた。

「他にもあるの。ほら、真琴が一度いなくなった時……あの時ね、祐一はずっと真琴の傍にいてくれたの。 それに真琴がずっと願ってたこと、全部、全部叶えてくれて、そして最後に……ものみの丘で真琴と祐一は結婚したんだ」

 そこで真琴は一呼吸置く。そしてまた静かに口を開く。

「だから、祐一は本当はやさしいの。それは真琴の事が好きだから、なのかな? よく分かんないけど、 でも、少なくとも真琴はそんな優しい祐一の事が……って何言わせるのよぅ! 美汐!」

 再び真っ赤になって真琴が言う。

「ああっ、もうこんな時間! 早く寝よ、美汐。明日早く起きたいじゃない、ね、ね」

 まくし立てるように言って、さっさと布団を敷いてしまった。

「ねぇ、電気消すよ。美汐も早く横になりなさいよ」

 言った途端、暗闇が私を包む。私も習って横になることにした。そのまま寝れるとは、到底思えなかったけど。




 明かりが消えてからしばらくして、私は布団から起き上がった。隣には穏やかな顔で寝ている真琴がいる。 そんな彼女を起こさないよう、そっと布団から出る。そしてベランダに出た。
 桜が散って、梅雨が来るまでの間の季節。 そんな季節の夜は少し肌寒くて、ずっとバラバラでまとまりの無かった私の頭の中を引き締めてくれた。

 私と相沢さんの違い、それが何となく分かってしまった。
 ずっと真琴の傍を離れなかった相沢さん。
 それに対して私は……





 あの子の太陽のような笑顔に翳りが見え始めたのは、桜がまだ残っていた四月の中旬だった。いろんな事が 満足に出来なくなる。最初は直ぐに良くなると楽観視していた私も、何度も箸を落とす様を見て、次第に不安が体を包み初めて来た。 四月の末日に熱を出し始めたあの子は、連休までに風邪が直ったらどこかに泊まりに行こうとしきりに言ってきた。 それはあの子自身の望みも有るのだろうけれど、友達が少なくどこにも遊びに行くことの無かった私への配慮もあったのだろう。 本当に優しい子だったから。
 だが、そんなあの子の温かさとは裏腹に、当時の私の心は混乱と恐怖でいっぱいだった。 あの子は消えて仕舞う。ものみの丘の妖狐の伝説を調べ時、私はその妖狐があの子だと確信していた。
 あの子にどうやって接すればいいのか。
 いつか良くなると当ても無いまま励ませば良かったのだろうか?
 そんなことは無い、と信じ込み今ある現状を見なければ良かったのだろうか?
 それともあの子が元気になる、とひたすら祈り続ければよかったのだろうか?
 今ならどうすれば良かったのか分かっている。だけどあの時の私はそんなことも分からなかった。 思い返してみれば私は看病といえるものを、たったの一度もしたことが無かった。そして、 あの子は連休を迎えることなく消えてしまった。

 涙が出そうになって、私はぐっと上を向く。ぼやけた視界から真っ黒な空が写った。
 あの子にどう謝ればいい?
 私はあの子に何もしてあげられなかった。ただ、あの子が私に与えてくれただけ。あの子にとって私と過ごした 時間はどういったものだったんだろう。いったい私はどれだけあの子に謝ればいいのだろう。後悔ばかりが浮かんでくる。 あの子と過ごした時間はどれもこれも楽しいものだったはずなのに。


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