どうやら朝になったようだ。考え込んでいて、結局あまり寝ることが出来なかった。
隣では真琴が安らかな寝息を立てている。真琴を起こさないようにベッドを抜け出し、部屋の外に出る。
廊下には誰もいないと思っていたが、そこには鉢巻を頭に巻いている相沢さんがいた。手にはフライパンとお玉を持っている。
どうやら、あの姿で水瀬さんの部屋に入るようだ。
私がその奇妙な姿をじっと見ていると、その視線に気づいた相沢さんがこっちに振り向く。
「……相沢さん。悪戯にしては古典的過ぎませんか?」
「悪戯? 俺は名雪を起こしに行くだけだが」
「なぜそんな物使うのですか。だいだい今日は休日です」
「あっ」とつぶやいた後、しまったといった顔で「そうだ、休日じゃないか。もっと寝とけばよかった。ついついいつもの癖で」
と言った。
いつも相沢さんは、朝あんな格好をしているのだろうか。やはり彼には変なところがある。
「で、昨日は良く眠れたか?」
「……いえ、考え事をしていたら眠れませんでした」
「なんつーか、天野らしいな。そういうの。まあ、今日くらいはちゃんと寝とけよ。二日間寝ないのはだいぶキツイぞ」
「はい……」
そうだ、昨日だけでなく今日もこの家に泊まるのだ。私はその事をすっかり失念していた。今日は寝ることが出来るだろうか。
いや、きっと無理だ。この家は私には辛すぎる。悲しい記憶を呼び起こされてしまうから。
「天野、どうした? せっかく早く起きたんだから。朝飯でも食べないか。秋子さんなら起きてるだろうし」
「……はい、そうします」
先に階段を降りている祐一さんを追いかける。とりあえず今は考えるのはやめよう。
リビングに降りると秋子さんが既にキッチンで朝食を作っていた。朝食がパンというのは初めてだ。おそらくその事を
相沢さんに伝えれば、やっぱりな、とかいうのだろう。私は黙ってパンにバターを塗った。
「そういや、今日何するか真琴と決めているのか?」
「いえ、特に決めてはいませんが」
そういえばそうだ。昨日は結局真琴に急かされるようにベッドに横にされたから、何も話していない。
もっとも真琴をそうさせたのは私だけれど。
「真琴はいつ頃起きますか?」
「ん〜、分からないな。昼ごろには流石に起きるだろうけど」
「そうですか」
「真琴が起きるまで外で散歩でもしてくるか? 今頃なら、公園で太極拳してる爺さん達に混ざれるかもしれないぞ」
「行きません」
相変わらず失礼なことを言ってくる。今のやり取りを見てたのか、秋子さんがくすっと笑いつつキッチンからお盆を持ってテーブルに
向かってくる。お盆の上のカップから湯気が出ている。香りからしてコーヒーだろう。
「まだ予定が決まってないんだったら、あそこに行ってみてはどうかしら?」
「ん? あそこってどこですか?」
「ほら、真琴のいた場所よ。ものみの丘、だったかしら?」
ぴた、とパンを口に運ぼうとしていた手が止まる。
「ああ、あそこですか。確かにあそこは思い出の場所だからな。どうする、あま…の?」
私の様子が変だと気づいたのだろう。相沢さんが怪訝な顔をしてこちらを見る。
「いえ……何でもありません。行くんですか、あの丘に?」
「まあ、真琴次第だな。あいつは行くって言うだろうけど」
「そうですか」
会話の後も私の手は止まったままだった。目の前に置かれたコーヒーを見つめる。
波立った液面に私の顔が映る。表情が歪んでいるのは、決してコーヒーの波のせいではないだろう。
しばらくすると、真琴が起きてきて部屋に現れた。相沢さんがものみの丘に行くかと聞くと、
迷わず行くと答えた。
三人でものみの丘へと続く道を登る。ここに来るまでに、コンビニによって食べ物を買ったり、本屋でマンガを読みたがる
真琴を引き止めたりした。結局、何にも買うことなくここまで来た。隣では真琴と相沢さんが何やらお喋りをしている。
内容は私のほうには届いてこない。単に私に聞く気が無いからだけど。
私はさっきからずっとこの場所を懐かしんでいる。
舗装されていない足場の悪い道。周囲を囲む木々たち。そのすべてが懐かしい。そしてもう少ししたら、私にとってもっとも
印象の深いところ――丘が見えてくる。
「美汐、見えてきたわよ!」
そういって真琴は駆け出していった。相沢さんもそれに倣う。相沢さんと真琴の背中が並んだと思ったら、すぐに
真琴が追い抜かれた。なにか声を出した後、真琴は更に加速する。私はその追いかけっこを歩きながら見ていた。
「ほら、着いたわよぅ」
真琴の喚声と共に視界が開いた。久しぶりに来た丘は、私の記憶を寸分の違いの無いものだった。
どんなに時が経ってもこの場所は変わらないのだろう。
私の頭の中に、とうとう来てしまった、そんな考えが去来する。ここはあの家よりもずっと、私の記憶を揺さぶってくる。
本当ならここには来たくなかった。
私の表情に気づいたのか、相沢さんが私に話しかけてくる。
「なあ、さっきからずっと浮かない顔しているけど、何かあったのか?」
「いえ……別に……」
「そんなわけ無いだろ。ずっとそんな顔してるぞ。ここに来る前から」
ここになんかあるのか、と聞いてくる。そんなの当たり前じゃないですか、ここはあの子との思い出の場所なんだから。
その言葉を飲み込む。違う。そういうことを相沢さんは聞いてるんじゃない。
「私は……」
「私は?」
「私は、この丘にあの子が消えた後、一度も来た事がありません」
そう、私はここに来るのが久しぶりだった。
この丘に来たのは、あの子が消える前に鬼ごっこで遊んだのを最後に来ることは無かった。
「なんだ、そういう事か。どうだ、久しぶりに来るおか……」
「相沢さんにとって、この場所は思い出深い大切な場所かもしれません」
遮るように私は言う。もう耐えられなかった。押し込めていた感情が涙と共にこぼれていくのを感じる。
「でも、私にはこの場所は辛過ぎるんですっ。あの子の事を思い出してしまって。私にとって、あの子との思い出は大事だけど、
だけど悲しいものでっ、それで私はあの子に何にも出来なくてっ。それが私と相沢さんの決定的な違いだと……」
嗚咽交じりの混乱した言葉が、次々と口から出て行く。
意味不明なのは自分で分かっていたけど、それに気をまわすほどの余裕は私には無かった。
「相沢さんは真琴の為に色々尽くしてきました。だけど私は全然そんな事出来なくてっ、あの子が熱を出して動けなくなったときも
私は怖くて混乱してて、ずっとずっと何も出来なかったから。だから真琴はかえって来たけれど、あの子は帰ってこなかった
んだなって」
「天野」
「そんなの当たり前ですよね。こんな非道い人間なんですから。私はあの子から思い出を貰えるだけ貰って、そのくせ自分は
何一つ与えてないんですから。こんな私のもとにあの子が帰ってくるわけが……」
「天野!!」
相沢さんが大声を出す。その声に流れ出ていた言葉がせき止められた。真琴も驚いたようで、何も言い出せずに、
相沢さんの後ろからこちらを見ている。
しばらくして、さっきとは違う落ち着いた口調で相沢さんが話しかけてくる。
「俺はその子を知らない。天野がどういう風にその子と過ごしてきたかも。だから、天野の昔のことに
関して何も言えない」そこで一呼吸置いて「だけど一つだけ確かな事はある。
天野は決して非道い人間なんかじゃない。それは俺も真琴も良く知っている」そう相沢さんは続けてきた。
そっと相沢さんが私の肩をつかむ。
「なあ、天野。そんな悲しいこと言わないでくれよ。少なくとも俺は天野のおかげでここまでやってこれた。
真琴のことを最後まで見れたのは天野がいたからだよ。俺一人じゃ決してあそこまで出来なかった」
じっと見つめて言ってくる。さっきよりは鮮明になってきた視界の端に、何か言いたそうな真琴の姿が映った。
やがて、祐一さんの隣に並んだ真琴が口を開く。
「あの……美汐。真琴は美汐が居てくれて本当に良かったよ。どんな時だって美汐は優しかったし。だから…」
「でも、あの子が帰ってこないという事実は変わりません」
「それは……」
困ったような顔を真琴がする。でも、私の言った事は紛れもない事実なのだ。
しばらくの間、場に沈黙が流れる。その間私はまた考える。確かに私は真琴と友達になれた。居てくれて良かったといってくれるなら
、きっとそうなのだろう。でも、それで私の過去が変わるというわけではない。
過ぎ去った過去を変える事は出来ない。だったら私はどうすればいい?
「なあ」
流れていた沈黙を相沢さんが破る。
「天野がその子にしてきた事――いや、さっきの言い方からして何もしなかった事か――それを
後悔してるのは分かった。だったら、これからはそうしないように過ごせばいい。その子に色んな思い出を与えられたのなら、
その思い出を他の人にも分け与えればいい。そうやって頑張っていけば」
ぽんっと相沢さんが真琴の頭に手を乗せる。
「こいつみたいに帰ってくるかもしれないぞ」
でも、それは根拠の無い望みでしかない。
私の不安な顔を見て、相沢さんがさらに言葉を続ける。
「知ってるか? 天野。奇跡ってな、願ってりゃ結構叶うもんなんだぞ。でなきゃこいつが戻ってくるわけ無いし。
それに、ここで頑張ってる天野の姿を見たら、その子が戻ってきたくなるんじゃないか?」
ぽんぽん真琴を叩きながら相沢さんが言う。真琴は少し嫌がりつつも、ちょっとだけ嬉しそうだ。
その表情のまま、真琴が私に向かって言ってくる。
「祐一の言う通りよ。美汐がもうちょっと明るくなって、元気に過ごしてればその子も帰りたくなると思うのよぅ。
だって、真琴も祐一がずっと暗いままだったら帰ってこれたとは思えないしね!」
いいんだろうか、そんな願いを持っても。私があの子に出来なかった事を他の人にする。そしてあの子が私にしてくれた事を
私がみんなにしてあげる。そうすれば帰ってきてくれるのだろうか?
「本当にそんな考えでいいんでしょうか? そんなのただの希望的観測でしか……」
「俺だってそう考えてここまで来たんだから。いいんじゃないか? それで」
「そうよぅ。それに美汐と会った時にその子も明るい美汐が見たいだろうし」
真琴はもう帰って来るのを前提で言っている。
そうだ、帰って来ないって決まったわけじゃないんだ。ただ、相沢さんの方が頑張ってきたから、それで
真琴は早く帰ってきたのかもしれない。そうも考えられる。
なんの見返りも求めずに思いを保ち続けるのは容易なことじゃない。相沢さんは真琴が帰ってくることを信じて
ずっと頑張ってきたんだ。そしてそれが報われた。それなら、私のするべき事は。
「天野、昔俺に『どうか強くあってくださいね』って、そう言っただろ。
今度はお前がそうあるべきなんだ」
相沢さんの言葉が私の中で決定打となった。だから私は
「はいっ」
そうやって元気よく返事をした。
その日私たちは歩いて家に戻ることは無かった。なぜなら走って帰ったから。私は最下位だった。
夕食の時間。昨日は四人の会話から外れていたけど、今日は積極的に話をした。食卓でこんなに会話するのは随分と久しぶりの事だった。
食後、真琴に一緒にお風呂に入ろうと言われたけど、流石にそれは辞退した。正直それはちょっと恥ずかしい。
夜の帳が完全に落ちた頃、真琴と水瀬さんとの女三人で水瀬さんの部屋で話をした。三人の共通点が相沢さんなので、必然的に
その話で盛り上がった。
「祐一はひどい! いつも真琴にゲンコツしてくるし」
「そうだよ! ほんと祐一はひどいんだよ! 前だって私がイチゴサンデー食べてたら『太るぞ』って言ってくるし。
デリカシーがないんだよ祐一は。ね? 天野さん」
「えっと……」
対応に困って私は苦笑する。でも、良く考えると私も結構非道い事を言われている。
「そうですよね。相沢さんは非道いです。いつもいつも私の事をおばさんくさいって」
「でもそれは、ほんとうの…」
「真琴?」
「あう! な、なんでもないわ」
ちょっと冷たい声を出したら。真琴がずずっと下がって怯えている。それが可笑しくて笑ってしまう。
水瀬さんも楽しそうに笑ってた。
しばらくの間そのまま雑談を続けていたが、今日は新記録だよ、という言葉と共に水瀬さんがいきなり眠りに落ちてしまい
それでお開きになった。
真琴の部屋のドアに手をかけたところで、一言私はつぶやいた。
「なんとなく、水瀬さんの寝起きが悪いというのが分かりました」
「でしょ? こんな時間で眠くなるんだから、名雪は。でも、やっぱり今日は頑張った方かも」
「この時間でですか?」
思わず聞き返す。時刻は十一時。普通の高校生が寝るには早い時間だ。
「いつもは九時に寝るの。それで朝は起きれないんだから、やっぱり名雪は変よ」
「そうですね……ふぁ」
返事をしたと同時に欠伸が漏れた。昨日あまり寝てなかったからだろう。今日はもう寝よう。
その事を真琴に告げると、真琴が残念そうな顔をした。
どうやらまだまだ話をしたかったらしい。別に今日でなくてもいいでしょう、と説得したらしぶしぶながら
真琴は了承してくれた。時間なんてこれから先いくらでもあるんだから、別に今話さなくたっていい。
水瀬家での三日間で私がした決心。強くなろう。相沢さんがそうしたように私も。
人の家に遊びに行くことも、泊まることも、今はまだ慣れてはいないけどいつかは慣れる。鬼ごっこだって
少しは恥ずかしいところも有るけれど、皆で遊べばきっと楽しい。私はそうやってあの子との思い出を忘れずに、新たな思い出を
刻んでゆけばいいんだ。
後悔が消えたわけじゃない。何も出来なかったことに対する後悔はこれからも続いていく。だけど後悔は同じ過ちを繰り返さないために
するものだから。
私の元にだって、いつかはお菓子が降ってくる。私はそれを信じられる。